廣誠院庭園の石碑(東南の隅)

木屋町通りより見る

 佐久間象山遭難碑(向かって右):
      大正四年十月建立(デザイン・設計 武田五一)
 大村益次郎遭難碑(向かって左):
     昭和九年七月建立

 廣誠院の庭園東南の隅に、木屋町通りから見て右側に佐久間象山、左隣りに大村益次郎の石碑が並んで建っている。 この二人の人物とここに建てられた経緯及び碑文を紹介します。

佐久間象山(さくましょうざん・ぞうざん)

 文化8年(1811)3月22日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。若年期に詩文・経書・数学を学びとりわけ数学の素養を身につけたことがその後の彼の洋学吸収に大きく影響した。天保4年(1833)に江戸へ出て儒学・朱子学を学び同10年(1839)には江戸で私塾「象山書院」を開き儒学を教え、勝海舟(象山の妻は勝の妹の順)、吉田松陰、坂本竜馬ら傑物を輩出している。その後、藩主真田幸貫より洋学研究を命ぜられ兵学の素養を身につけるや大砲の鋳造に成功し名を高めた。その後、洋学全般に関心を寄せガラスの製造、地震予知器の開発に成功、更には牛痘種の導入も企画していた。
 嘉永6年(1853)、黒船が現れ開国を強く迫り幕府は動揺狼狽する。象山の門弟吉田松陰 が海外の実力を知るべく渡航を試みるが失敗、横浜開港を主張していた象山が松陰をそそのかしたとして共に投獄、象山は松代で9年間の蟄居を余儀なくされた。
 時節も変わり53歳のとき蟄居救免、京都の治安を守るため将軍家茂より上洛の命が下る。 市中警備の役に不満な象山は持論である開国論と公武合体論をもって朝廷と幕府のあいだの橋渡しに奔走した。
 時局はいよいよ険悪となり、当時の京都は長州藩士ら尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっていた。国論の統一が進まない中、寸暇を惜しんで走り回っていた象山は二条木屋町の路上(廣 誠院庭園の前)で志半ばにして尊皇攘夷を主張する守旧派の一味と思われる暴漢により殺害された。 元治元年(1864)8月12日、享年54歳であった。
 没後50年にあたる大正4年(1915)の10月31日、「象山先生遺跡表彰会」により 記念碑が建立、盛大に除幕式が執り行われた。除幕式には石碑建立に際し主旨に賛同し土地を提供した廣瀬満正、50年前の早朝の事件を家の前で目撃したお婆さんを始め市の有力者、出身地松代からも多数が参列した。その時の記念の集合写真がのこされている。

(石碑に彫られている碑文の意訳)
 嘉永以後(1848〜52)、外舶(外国船)が開国論を叩き(ひらき)、挙主鎖攘(きょしゅさ じょう・鎖国攘夷論を唱える者)沸騰す。是時(このとき)にあたり佐久間象山先生は絶特の識 (きわめて優れた知識)をもって独り群議を排して開国を倡(とな)えた。此れをもって禍実 (わざわい)を取る。元治元年(1864)七月十一日なり。のち五十余年有志は胥(みな) 立石(石碑を建てる)を謀る。もって其の終焉の地、距(へだ)たること此の正東五十二尺 の先生遭難の処にて表(しる)す。

(関係施設等)

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大村益次郎

 文政7年(1825)5月30日、周防国(山口県東部)吉敷(よしき)郡鋳銭司(すぜんじ)村に村医の長男として生まれる。防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び翌年豊後国日田の廣瀬淡窓の門下となり、弘化3年(1846)大阪に出て緒方洪庵の敵塾で学び、塾頭まで進んだ。嘉永3年(1850)父親に請われて帰郷、村医となって村田良庵と名のり翌年結婚。
 同6年(1853)黒船が來航するなど蘭学者の知識が求められるようになった頃、伊予宇和島藩の要請で出仕、西洋兵学・蘭学の講義翻訳を手がけ安政元年(1854)から翌年にかけて長崎に赴いて軍艦製造の研究を行った。この頃、出島に来航したドイツ人医師シーボルトの娘で産科修行中の楠本イネを紹介され蘭学を教えた縁で後年大村が襲撃された後、大村を看護し最期を看取っている。
 この頃村田蔵六と改名、安政3年(1856)4月江戸に出て「鳩居堂」を開塾して蘭学・兵学・医学を教える。宇和島藩お雇いの身分のまま幕府が九段下に創立した洋学所である蕃所調書教授方手伝となり安政4年幕府の講武所教授となった。万延元年(1860)、長州藩の要請で江戸在住のまま同藩士となり、幕府から委任されて英語・数学を教えていたヘボン(アメリカの宣教師、ヘボン式ローマ字を創始)のもとで学んだ。
 文久3年(1863)荻へ帰国し西洋学兵学教授となり博習堂で講義を行う。長州藩では、高杉晋作らが馬関(下関)で挙兵、第一次長州征伐の結果幕府に恭順していた保守派を打倒、藩論を統幕でまとめた頃であった。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめ軍制 を改革、大村に指導を要請している。桂小五郎(木戸孝允)の推挙で100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名した。明倫舘兵学寮総官・教授として歩兵・騎兵・砲兵士官 教育を行った。大村は、西洋の兵学書を単に翻訳しただけでなく実践に役立つよう書き改めて 指導している。
 慶應2年(1866)、幕府は第二次長州征伐を号令戦闘が開始されたが、大村は実践指揮を担当、優れた才能と戦術で幕府側を悉く撃破、勝利に導いた。明治元年(1868)2月、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允、大久保利通と並び新政府の幹部となり兵部大輔(たいふ・次官)に就任している。当時の兵部卿は名目的存在で大村は事実上日本陸軍の創設を指導することになる。
 明治2年(1869)、日本の中心は大阪であるとして大阪に兵部省の兵学寮、京都宇治に 火薬製造所を設け、また、大阪砲兵工廠の建設を決定している。
 大村の政策は、廃刀令を布くなど武士層の特権を剥奪し、また、洋式模倣の弊害をもたらすとして攘夷派の敵意を集めており、同年9月4日同じ長州の不平分子らに三条木屋町(樵街)の旅館で襲撃され負傷、辛くも一命をとりとめ山口藩邸に移送治療を受けた数日後、大阪の病院に入院したが11月5日敗血症で死去した。享年46歳であった。
 大村の軍政構想はその後も受け継がれ、山県有朋に兵部省・陸軍省の主導権が移った後明治 6年(1873)国民皆兵を謳った徴兵令が制定されている。
 尚、大村益次郎の刺客は直ちに捕らえられ刑部省京都出張所へ送られた。弾正台京都支部に 当時勤務していた伊庭貞剛は刺客の処分方法と手続きにつき法の定めに基づいて執行するよう 説得、東京の本部に出向いている。

(石碑に彫られている碑文の意訳)
 大村兵部大輔(たいふ)、諱(いみな・生前の名前)は永敏、通称蔵六、後に益次郎と改める。 周防国吉敷(よしき)郡鋳銭司村の人。文政7年(1824)3月10日生れ。壮年になって 博く(ひろく)東西諸国の兵書を究める。安政3年(1856)幕府の講武所(洋式も取り入れ た武芸訓練所)教授に任ぜられる。文久元年(1861)毛利藩兵学教授に転じる。慶応2年 (1866)毛利藩が幕府と争隙(そうげき)を開いたとき、大輔は藩兵を率いて連戦、皆捷 (しょう・勝利)の驍名(ぎょうめい・武勇の聞こえ)大いに振るう。明治元年(1868)官軍 奥羽・函館において戦ったとき、帷幄(いあく・陣幕)に参り偉功(すぐれたこうせき)を示した。(明治)2年(1869)兵部大輔に任じられ、陸海軍制および国民徴兵の制並定の基礎をなす。8月京都に入り木屋町に寓し、はかって将(まさ)に兵学寮および機器局を設立せん とす。9月4日夜、刺客のために襲われる所、創(きず)は甚だしく11月5日遂に薨(み まか)る。年は47、13日朝廷は其の功に特別の旨を録(しる)して、従三位を贈る。
大正8年(1919)従二位を追従(ついしょう・後から官位をのぼらせること)される。

    昭和9年(1934)7月 

(関係施設等)

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